06/2020

アイコン190425管理人の作業日記

ここだけ毎日更新。ツイートばりの短文日記。
家族仲良くしていれば。6月


約3カ月ぶりの取材案件。原宿へ向かう。竹下通りはいつもの賑わいはなく、今日の天候の如く通行人はポツリポツリ、であった。

久しぶりに多人数で会話をする。(ソーシャルディスタンスおよび全員マスク装着)やはりみなさんとお話をするのはとても楽しい。

帰宅し、別件でリモート打ち合わせをする。ほぼ1日喋りっぱなしという、ここ3カ月の期間と真逆のような日。たいへん楽しく過ごす。やはり、人様と喋っているとそれだけで覇気が出る。

「手前は人と会話をしない生活が続いても別に平気」とか先月あたりほざいていたが、やはり他者様と会話あっての潤いの暮らし。それを実感した日だった。

俺なんぞと会話してくれてありがとう、という崇高で神聖な気分である。しかしちょっと清すぎる。酒で若干濁らせて寝よう。適度なノイズは大事にしたい。
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足立区の病院から入電。担当の脳外科医の先生からである。

内容を要約すると、「現在、父は脳腫瘍(良性)摘出手術に耐えうる体力と判断できないため、まずは減食気味を改善するために胃瘻を検討している。ご家族のご了承を」というものだ。

俺は、プロの判断に一任した。「どうぞ、胃に直で栄養を流し込んでやってください」と。

いくらか仕事をして少し休み、夜飯を食いに出かけると謎の希死念慮に包まれる。希死念慮とは、文字通りである。あな恐ろしや。

この特有の感情に紐づく「理由、事象がある」場合は正常である。たとえば「上司に超怒られた。死にてえ…」「また振られた。死にたい…」「パチで10万イカれた…死のう」というケース。これは人間の心理として普通だ。

しかし、「何の理由もきっかけもなく希死念慮が湧く」という場合。そして、「それが一度や二度ではない」となると病気である。心療内科か精神科に行くのが得策だ。

希死念慮は、うつ病やパニック障害、統合失調症、各種パーソナリティ障害に罹患した人間にしばしばみられる症状である。何の自慢にもならんが、俺は伊達にメンヘラの勉強を欠かしていない。

芥川龍之介さんの「唯ぼんやりとした不安」というフレーズは、ご自身の心境なのか、何かしらの周囲に向けた感情なのかわからないが、もしかしたら現代で言う精神疾患にかかっていたのではないかと憶測してしまう。それほど、なんかドキッと揺さぶられるフレーズだ。

それくらい、「希死念慮」というのは“ぼんやり”ともしていれば、“雷に打たれたような”類のものもある。

中島らもさんは著書で、「俺にはいま希死念慮が出ている! すぐに病院に連れていってくれ!」と、ビルの屋上から近しい人物に本気で助けを求めたことがあるようなくだりを記していた。その著書の内容から察するに、実体験談と思われる。その後、「あの時たまたま何某が来ていなかったら…」と述懐していた旨も記されていた。

それが何なのか知っていれば助かるという場合がある。知らないだけで死に至るということもある。

俺は「希死念慮」についてよく知っているつもりだ。だから屈しない。「また来たか。ひさしぶりだ」くらいで躱す努力をする。

希死念慮いっぱいの気持ちのまま某かつ屋でカツ丼(梅)をかっ食らう。うまい。うまいだけである。「うまいカツ丼の味がする」という感想だ。1/3程度食った段階でもう食いたくなかったが、もったいないので完食。

そのまま散歩をする。夢の中を歩いているような気分で散歩をする。犬が散歩をしている。尾行をすると、各ポイントで犬はちゃっちゃとマーキングをする。あれは確か縄張りを主張する行為。「生きてるなあ。犬はしっかり生きてるなあ」と声が漏れる。

希死念慮のきっかけ、理由について、ゆっくり歩きながら考えた。客観的に考察して、悲しい出来事があったかと。普通に考えて親父の件の電話だろうか。

脳はアルツハイマーと精神疾患でコテンパンにヤラれ、廃用症候群によって体も弱り、めしを食うのも拒絶している段階。胃瘻という医療行為。

次の入電では「合併症で脚を切断する必要があります。ご家族のご了承を」だろうか。

「意識不明となり、自発的な呼吸機能も不全となりました。延命処置のご判断を」だろうか。

家族がそのような状態になった場合、精神的に重く負荷がかかるのが一般的な解釈である。

精神的負荷には各レベルがある。「家族が重篤な状態が続く」という状況下は、マックス「III」の3段階のうち「III」である。これは俺の解釈ではなく、メンタルヘルスのなんちゃら協会という国公認の機関が示した「平均的な心理的負荷の強度」一覧表に基づくものである。

それを思い出した時、俺の心はふと軽くなった。理由は、「その表通りの心理アクションが出たということは、俺は正常なんだ。健全なメンタルなのだ」と判断できたからである。

犬コロですらマーキングという行為で、生きている証しを日々残している。俺はというと、カツ丼の味がどうこう言っている場合ではない。そう思い、宅に戻り煙草を吸ってデスクワークに励んだ。アコースティック・ギターを弾いた。

アコースティック・ギターとは、こんなにも綺麗な音がするのだなと、生きている実感に包まれた。胃瘻とかマジでどうでもいいからとりあえず手前の胃に直で酒流し込んで寝くさろう。明日もみんなにとってよい日が来ますように。
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わりとフレッシュな気分で起床。家族親族集結して謎の神聖な集いが開催されるという夢はなんだったのであろう。夢の中ではいつだって平吉一族は仲良しである。現実では破綻しているが。きっと代償行動が夢として表れるのだろう。

宅での作業の合間に散歩をする。この時期、一年で約一週間くらいしか見られない、紫陽花の子供を眺めるのが好きだ。

青、紫、赤、白と、様々な紫陽花が芽吹いている。イメージ通りのポンポンした形になる前の紫陽花は、どこか人を小馬鹿にしているような形状で蕾を全方位に伸ばし、喩え難い表情をしている。

どこかサイコで、幾何学模様ともとれ、『エヴァンゲリオン』の使徒のようにも見え、生命の根源を表すようなルックスにも捉えられ、たいへん味わい深い。そしてシンプルに、かわいい。

そこで「味もみておこう」という、『ジョジョ』の岸辺露伴的な発想が出た。紫陽花の子供がどんな味をするのか知りたい。俺には旨そうに見えるのである。

個人経営の居酒屋で出てきがちな菜の花のおひたし的な味を想像している。俺は紫陽花に鼻を近づけた。無臭。「食うか」と思ったが、子供を無目的にそっと殺すような行為に近しい気がしたのでヤメた。

かわりに、傍に生えていたドクダミの葉っぱを食おうかと思った。ドクダミには確か薬効があるそうな。葉っぱをちょっと擦って嗅ぐとたいへんドラッギーかつスパイシーな香りに打ちのめされた。

植物は旨そうだったり毒毒しかったり美しかったりどこか無機質だったりと、多種多様だ。動物も人間もそうだ。だからこそ、互いに超えてはいけない一線というのがあると思う。紫陽花にとってのそれは、食うという行為だ。

紫陽花は、眺めて愛でるのが人間と彼らにとって心地よい距離感。俺は、植物でも動物でも人間でも、心地よい距離感というのが大好きだ。
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「膝から崩れ落ちる」という表現がある。俺は自宅物件の廊下でその手前のリアクションをとった。ガチでフラついて壁によりかかったというくらいの衝撃を得たのである。

宅の玄関に向かう途中で郵便物を開封して、まずファーストビューに飛び込んだ文言は「親族に対する扶養援助のお願い」だった。

俺はこの14文字を見て一瞬で理解した。俺にとって稼働している家族は兄貴一人である。そいつに“扶養援助”ということは、彼は、健康で文化的で最低限度の生活を営めない現状なのだろう。秒で察した。

文面を隅から隅まで読むと、100%俺の察した通りの記述。そして“扶養届書”の添付。「精神的な支援について」「金銭的な支援について」――「します・できません」の選択欄。

1年半くらい前、平日にヨレヨレのスーツスタイルで旅行鞄みたいなのを2つ引きずる兄貴を偶然見かけた。俺は声をかけたが、彼はそそくさと無言で去った。追う気力はなかった。ただ、「あいつ、もしかしてホームレスになっちゃった?」という印象だった。

どうやらその通りだったのかもしれない。いや、先述の郵送物が一親等である俺に送付されるということは間違いなく、そうなのである。

俺はたいへんショックを受け、ソファに沈んだ。認めたくないが、甚大な精神的ショックを受けた。同時に、「家族に対して心配する正常な心」が確かにあることを実感し、安心感も微量だがあった。

兄貴は俺を、父親を、拒絶している。俺は父親はアレだが、兄貴のことは、「別にどうでもいいがな」とか強がりつつも、実はずっと心配していたという手前の本当の心情を理解した。

俺がこの通知をフルシカトしたらどうなるかは知っている。3、4年ほど前、親父の件でこの手の社会福祉系の知識を吐きそうなほど収集したからである。

「精神的な支援」はもちろんしたい。だが、彼が受け入れるだろうか。「金銭的な援助」については、全面的にというのは手前の状況的にも難しい。「月に何万か」とかだったら頑張ればいけるはずだから是非そうしたい。だが、彼は受け入れるのだろうか。

どうしていいのか全くわからない。外で頭を冷やそうと歩いている途中で見かけた警邏中の女子ポリスさんを捕まえて「こういうわけなんですけど、どうしたらいいですか?」と、聞くほど、テンパっていた。当然、警察官は民事的なことに具体的に答えられないことをわかっていても聞いたくらいである。

とりあえず、明日、兄貴がいるという某区の役所に行こう。会って話がしたい。会話をしてくれるだろうか。

兄貴も出演した、昨日のファミリーな夢はこれを暗示していたのだろうか。だとしたら俺は立派なスピリチュアル野郎である。

夜、アコースティックギター1本のみの楽曲を作って録音した。すごく素敵な曲が出来た。やはり、不幸的なことは、ある種の原料なのか。「The Sad Brother」という曲名にした。悲しき兄貴。咽ぶ弟。それでも、明日はみんなにとってよい日が来ますように。
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早起きし、悲しき兄貴の元に行こうと思ってまずは役所に電話をするも本人の意思確認が必要とのこと。連絡待ちである。だんだんどうでもよくなってきた。

今日のタスクメモには「休んでよし」とだけ書いてある。のびをする。めしを食い熱いコーヒーを淹れてすする。DAWを開くと、気がつけば1日が終わろうとしている。

途中、「持続化給付金」の不備修正依頼メールがまた来ていたが、なぜ一度に全ての不備をまとめて連絡しないのだろうと首をかしげる。民営の契約センターや登録センターなどだったら、このアクションを起こしたオペレーターは絶対に怒られるやつである。不備のある申請した手前も手前だが。

なんだかだんだん給付金がもらえない気になってきたが、不備解消して再申請したので気長に待つ。昨日とうって変わってなんとも平和な1日。
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たっぷり寝るもぐったりする。なぜだろうと昨日を回顧する。「休み」とするはずだったが、ほぼ1日中DAWに向かって制作していた。

開始前に、コンビニで生クリームドラヤキみたいなのと、なんとなく普段飲まないエナジードリンクのロング缶を買ってシュワッと飲み干したことを思い出した。

ドリンク名は「モンスター」だったか、飲み口はたいへん甘く、近未来的ケミカルテイストで、カフェインはドリップコーヒーの2、3倍含有。「たまにはいいもんだ」とか思いながら、ほぼ現代ヒロポン的な作用もありそうな後味を引っさげつつ、机に向かった。

そのあと、気がつけば1日が終わっていた。休憩不要なほど捗ったのである。こんなに効くものかと思いつつ、その反動で今日はぐったりしているのだろう。

それはそうだ。昨日制作した、やたら工数の多い手の込んだサイコな楽曲は1日フルに使っても完成まで4日はかかりそうなもの。それをほぼ1日でやったのだから当然疲労は残る。「元気の前借り」とはよく言ったものである。

エナジードリンクでも酒でも薬でも、俺は痩せていて体内水分量が少ないからか、やたらと効く体質だ。たぶん、今でもヒロポンが買えたとしたら、毎日飲んで早死にするだろう。

そういったわけで今日は昨日作った楽曲の最終仕上げをして、あとは請求書作成などのデスクワークをしてと、ほぼ休みとした。

起床時に「今日は休んだ方がいい」と判断しつつも、どうしても、なにか実となる作業を少しでもしないとウズウズムラムラするのは、アルコールやカフェインやニコチン同様、仕事中毒、作業中毒なのだろうか。それにより、「生活および社会活動に支障をきたす場合は“病気”」。主治医の先生はいつもそう俺に諭す。

いまのところ支障をきたしていないのでよしとする。でも、明日こそ完全休みにしたほうがいい気もする。日曜日。

「PCをいっさい開けない」「スマホに応じない」、この2つの条件をクリアしたら問答無用で「完全休日」と言える。しかし、これができる現代人はどれくらいいるだろう。本当に休日と言える日をとれる人は、現代ではどれくらいいるのだろうかと考えるがちと大げさ。
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囚人なみに早起きする。自律神経がなぜか休日を拒絶している。細かいことはいいやと思い、朝のチュンチュンとしたサウンドに耳を傾けながらメンヘラサイトの更新でもする。

「イド」という言葉の意味を調べる。分厚い分厚い「心理学辞典」という本を参照する。なんで俺の本棚にこんな書籍があるのだろう。

うっすらしか理解していなかった「イド(エス)」。要は、人間の根源的で丸裸のノーモザイクな欲求。

そして「自我(エゴ)」。認知や感情や行動をなどを統制する、一番現実的な自分の心的機関、といった感じだろう。

あと「超自我」。要は理想、道徳心や倫理観を尊ぶという感じの、自分にとっても社会的観点でも最も厳しい精神構造。

これらの3つの精神分析学の概念を、フロイトさんとかいうこの手の話の古典みたいな存在が昔に唱えたそうな。

たとえば、ダイエット中のギャルがいる。

「イド」は、「甘いものが食いたい」と、シンプルにせがむ。「自我」は、「じゃあコンビニ行ってスイーツ買ってきて食うべ」と提案する。そして「超自我」は、「待て、お前ダイエット中だろう。感心しない」と、戒める。

こういった3つの概念は誰しもあるという。一番子供っぽい「イド」は、最も鬼軍曹的な「超自我」といつだって葛藤する。そして「自我」がバランスを保つ。

俺はこの概念を知らなかった頃、「反社会的パーソナリティの手前」と「仕事も遊びも好きなフレンドリーな手前」と「立派な社会人的人格の手前」と、考え、手前の中の3つの矛盾した感覚を整理して折り合いをつけていた。

なんだ、フロイトさんのその考え方が心理学的に広まっているなら俺の中にある3つの矛盾する人格の共存は正常なのかと、安心したような残念なような気分に包まれた午前中。

そして1日中考えた。「イド」「自我」「超自我」、どれを最も大事にすべきかと。

最近俺はというと、たぶん「超自我」をわりと大事にしている気がする。仕事や人付き合いにおいて、どちらかというと自分を押し出すよりも、相手に合わせるようにしているきらいがある。もともとは「イド」全開な幼児的性格だ。

だが、「イド」をないがしろにすると、自分自身が破綻すると考えた。なにしろ根源的な欲求の部分なのだから。

かといって「イド」全開で暮らすと、毎日ギャンブル三昧の酒三昧、ちょっとでも嫌だと思う人間はディスりまくりという行動に出る。完全に子供人格である。

そこで「自我」が、うまい具合にバランスをとってくれている。両極端の声をヒアリングし、現状ではどうしたものかと判断、行動してくれる。酒を2杯で止める自我、そういったルールを設けることを提案する超自我、たまに8杯くらい呑み散らかすイド。

自我を保つのは難しい。自分と、他人と、社会と、理想的な自分と、いつだって折り合いを付けていかなければならないからだろうか。結局人間、バランスが大事だとよく言うが、どんな角度から考えてもその結論に落ち着く気がする。

最適な自我を保つにはどうしたらいいか。主張はちゃんとして、相手のことも愛を持って考えて聞く。そして、互いの一線を超えないように尊重し合う。相手の人格に干渉しない。だろうか。近いっぽいが、やっぱりわからん。だからこんな分厚い辞典が本棚にあるんだな。
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足立区鹿浜の病院へ。ソーシャルワーカーさんの方と、父親の今後の受け入れ先施設についてと、俺の現状報告や心境についてのお話しをする。これ系のやりとり、ここ数年で100回くらいやった気がする。

「面会もしませんか?」と言われたのでついでにする。病院内の扉は「コロナうんぬんにより面会謝絶」という張り紙だらけだったが、患者の病状レベルによるのだろうか。

じゃあと思い面会。その前に、看護師さんから笑顔で洗濯物をグイと提示されたので施設内のランドリーで洗う。1時間ちょいかかる。なんだこのもったいない1時間ちょいは。

とうとう胃に管か何かをブチこまれたもようの父親はさすがに覇気がない。アルツハイマーおよび脳梗塞の後遺症で会話も成り立たん。

「俺が言うことに対してYesの場合は左手を縦に、Noなら横にしてみ」と、コミュニケーションをはかる。なんだこの要らなそうな時間は。

「俺が誰だかわかるかい?」

左手を横と縦に振る。YesかNoかわからん。たぶん、なんとなく「定期的に来る奴」とは認識できるが、誰なのかと関係性は明確にわからない、というジェスチャーだろう。なるほど。今、こいつの認知機能はそういった感じか。と、思った。

最近いつもほぼ寝ている状態だったが、今日はめずらしく起きている時間が多いと看護師さんに聞いた。俺が来るのを動物的本能か何かで察していたのだろうか。

看護師さんも交えてのコミュニケーションの中で、父親は笑顔をみせた。安心感と悲壮感と恥辱感がブレンドされたような、わけのわからない表情だった。

帰り際、看護師さんは「息子さんが来てくれて凄く嬉しかったご様子でした!」と、言っていた。普段はさぞかし屍のような雰囲気なのだろう。嬉しかったのならいいかと思い、バスに乗って帰宅。

安い弁当を買うついでに記帳すると「チチチチッ」というサウンドと共に手ごたえあり。コロナ金融施策の3つの矢の内ひとつが刺さったもよう。着金である。しかも、最もハードルが高そうな日本政策金融公庫からの入金だった。

とりあえず一安心。手続きは全て終え、各種コロナ金融施策は「ほぼ確」の状態でじっと我慢して待っていたが、ほぼ確と確定にはかなりの壁がある。

ひとつ完了してえもいえぬポジティブに包まれた。ほとんど丸腰に近くなる状態からいきなりチャカを一丁手に入れた気分である。

だからといって散財はいかん。乱射はよくない。普段以上にシビアな金銭管理に努めよう。安い酒2本買ってきて手前とみんなにお疲れと言って呑んでぐっすり寝よう。
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昨夜はストロング酎ハイではなくビールにしたのが功をなしたのか、なかなかスッキリとした目覚め。

巷ではストロング酎ハイをドラッグ的な扱いで取り上げたり、アルコール依存症に陥りやすいなどと、あまりよい話を聞かない。しかし売上自体はかなり良好な様子で、それは需要があるということを物語っている。

呑みやすいからといってグイグイやったらそれは体によろしくない。アルコール度数9%というとビールの2倍弱。だがしかしビールくらいのペースでいける。それは危険も伴うというもの。

手前の経験上、どんな種別の酒でも、「ゆっくりと」「たまに水を飲みながら」という2点を押さえれば体に負担なく楽しく飲める。

逆にこれらを怠って人様と喋りながらハイペースで8杯以上呑むと記憶がどこかに行く。自戒。

1994年、「発泡酒」という新世代の酒が誕生した。サントリーから発売された「ホップス」がその酒道を開拓した。

2003年、「第三のビール」が普及し、2008年に「ストロング酎ハイ」が誕生し、トレンド入りした。

次はどんな酒が誕生するのだろう。時期的に、そろそろな気がする。コスパがよく、トレンディーなニュースタイル・アルコール飲料のリリースを待ち望んでいる。あらゆるアイディアを酒文化に落とし込んで発達させる各飲料メーカーさんに感謝申し上げたい。

でも、たまにスタンダードな日本酒やワインを呑むと「やっぱこれだな」とか思う。温故知新。そういったわけで今日あたりは昭和から売っている日本酒缶「ふなぐち」にしようか。アルコール度数19%。さしみによく合う日本の宅飲みスタンダード酒。
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真夏の気温に超強風という粋な気候。洗濯物が一点、風でふっとび行方不明。お気に入りの白シャツだったがもうだいぶ着た。大往生のお陀仏である。南無三。

原稿をひとつやる。どうも捗りすぐ書けたので、ちょっとブラりとしようと池袋へ。俺はガチのモニタースピーカーが欲しい。実際に音を聴くという目的で下見する。

ネットで色々調べるよりも現地に行ったり、その場の人に聴くのが情報量が濃いという経験上、まずは店員さんに声をかける。

「すみません、誰にもナメられないプロ級定番クラスのスピーカーを探しておりまして」

「定番ですか! ではこのあたりを……」

紹介してくれたスピーカーたちは、足立くんや順さんや稿屋さんなどがオススメしてくれたやつら3点であった。もう完全にこの3択である。

非常に悩むが、俺は一番高いやつが一番よい音に聞こえた。12万円也。ぐぬう。なんとなくピンときた好みのやつは7万円也。まあ予算内である。最も“標準的”と感じたやつは5万円也。これもいい。

しかしどれもコロナの影響で在庫がないという。なんならすぐに買おうと思ったのだが残念。ベースの弦を買って帰宅。1セット2,500円ちょい。ベースの弦ってなんでこんなに高いんだろう。

とりあえずガチめのスピーカースタンドを先にネットで注文する。スピーカーはもう少しじっくり考えよう。高めの買い物をするとき、色々な人からアドバイスをもらえるのはたいへん恵まれている。しかし、逆に迷いが増すという側面もある。

俺の判断だと、7万円のやつが欲しい。でも「妥協するな」という人もいれば、「5万ので十分」という人もいる。悩む。非常に迷う。もうサイコロ振って決めちまおうか。
_06/10

 

 


コロナ金融施策で放った矢がもうひとつ刺さり安堵。しかし申請から40日という謎の長期間が着金時の脳汁噴射を緩和させた。総理の言う通り申請後8日で着金していたら狂喜乱舞だったのだが、40日という待機期間はこんなにも人を冷静にさせてしまうのか。とにかくなにしろ、ありがたい。

蕎麦を茹でて食い、机で原稿を書く。当面の維持金は確保したものの、やはり人間仕事をして稼ぎ続けなければとカタカタ過ごす。

労働のない社会が来るとしよう。いや、個人的には近い将来、選択的にそういった社会になる気がする。ベーシックインカムだったか、無条件で定額金が毎月国から貰えて、仕事をしたり稼いだりは任意という制度が採用される気がする。

そうなったら俺は「仕事をして稼いで暮らす」と、「定額金を毎月貰い静かに遊んで暮らす」と、どちらを選択するだろう。

ゆとりをとって仕事をせず、毎日好きな音楽制作やら動画配信やらと、キャッキャと過ごすかもしれない。

いただける仕事があって、「俺は仕事をもって社会に貢献するということを求められている」と奮起するかもしれない。

真剣に考えると案外悩む。定額金を貰いつつ、ボランティアに精を出すかもしれないし、わりと選択肢は多岐にわたる気がする。

いずれにせよ、なにかしらの作業を毎日のようにしていないとムズムズするので、たぶん仕事、労働をする方を選ぶかもしれない。

そうでもしないと恐らく、酒と博打三昧の日々になるのは目に見えているからという逆説的な選択。根が真面目とクズ人格のハーフ。

イドと自我と超自我だったか、そのへんと折り合いをつける必要がある。何故人間いくつになっても悩みの種が尽きないのだろう。死ぬまで悩み続ける生き物。
_06/11

 

 


エアコンをつけるか否か絶妙なラインの蒸し暑い1日。リモート的な案件がひとつ。これまでになかった形式の案件は下準備が必要だが、この時期に案件を頂けること自体がありがたい。

なんやかんやといそいそと過ごした。この間注文したガチめのスピーカースタンドが到着したが、ダンボールに包まれたままというくらいであった。明日組み立ててほっこりしよう。
_06/12

 

 


やたら早起きしてちゃっちゃと過ごす。昨日届いたスピーカースタンドをホクホクと組み立てて設置して悦に浸る。若干の仏壇感が滲み出るも禅っぽくてクールということでよしとする。

夕方あたりになると「早く今日終わらねえかな」という心境になるが、それは「早く死なねえかな」と同じことを言っているようなものなので思考自体をキャンセルする。

デスクワークや制作をして過ごす。早起きしたぶん時間が豊富に感じる。ネット麻雀ゲームをやる時間もあるくらいである。それにしても俺は金を賭けないとやけに麻雀成績が優秀である。ちょっと計算したら、ピンレート実戦ならウン万円は買っている計算になり空虚感。

やること十分やったし漫画読んで酒呑んでラリッて寝よう。
_06/12

 

 


年々、何事もシンプルなものを好ましく感じる傾向が増していく。

昔だったらごはんのおかずは多ければ多いほど喜んだものだが、今日の昼飯なんぞコッペパンと葉っぱのみである。だがしかし栄養が偏らぬよう、ガチめのオリーブオイルをたっぷりかけて食う。

デスクもなるべくシンプルな外観が望ましい。スピーカーとかの隙間に小物やらネコのフィギュアやらを設置するに丁度よいスペースはあるが、何も置きたくない。置く必要性がない。置かぬ方が無駄な視覚情報が入らないので作業が捗るはずだ。

楽曲制作中、「こういった曲調はアコギがだいたい合う」と思い、マイクでアコースティックギターを録音するが、結果「無いほうがシンプルに聴こえてクールだ」と、感じた。せっかく1時間もかけて録音したがカットする。だがしかし音数、トラック数を減らすぶん、各ドラムパートやベースの音作りを念入りにする。シンプルにした方がその音楽のカラーがはっきりする。

服装だってそうだ。今朝なんぞまず、「下着とは必要だろうか」と思い、ノーパンで過ごそうかと思ったがそれはやめた。必要なものは削がない。それはシンプルとは言わない。ただの横着である。

鏡を見ると「どうも髪型がシンプルではない」と思い、短髪を検討するが、俺は絶望的に爽やか系短髪が似合わないので却下。削げばよいというものではない。

俺は思った。「どうシンプルにするか」と考えることは、その対象の本質と向き合うことではないかと。

「足すのは簡単だが、何事も引き算が難しいんだ」と、悟ったようなツラで偉そうにぬかす輩がよくいるが、どうやらそれは合っているもよう。物事に対する引き算をうまくするには、本質を見極める必要がある。それは難しい。

したがって、俺の今晩の酒のつまみの本質を見極める必要がでてきた。さしみ、ポテチ、イカ、ハンペン、ザーサイ、選択肢は無限にある。

今日は食事が若干偏ったのでタンパク源が必要だ。そしてヘルシーなのが食いたい。気分的に歯ごたえも欲しい。というわけで200円くらいで売っているミミガーに決定。さあ買いに行こう。ついでにじゃがりことか買わないように気をつけよう。それはシンプルを、本質を追求する行為ではない。
_06/14

 

 


案件で六本木一丁目へ。外出案件が少なくなってきた昨今、移動時間がやたらと長く感じる。

リモートでのやりとりもいいけど、やはり対面してのやりとりの方が肌に合うなとか思いながら案件を終えて帰宅。

宅で作業して制作してと、コロナ禍以前のような1日。健やかな6月の晴天日。
_06/15

 

 


たっぷりと睡眠をとり6月らしからぬドライな晴天の空気に包まれ覚醒。今日は買い物日和である。

現ナマをもっさり持参しJR埼京線で南下。渋谷の機材屋さんへ。スピーカーを物色する。ほぼ「これを買う」とは決まっているのだが、一応数10分ほど店内展示品を眺める。

やけにハキハキとした好感の持てる店員のお姉さんに、これまで数点のスピーカーを試し聴きした旨をふまえ、目当てのスピーカーの特徴などを聞く。

「色々聴いたけど、僕はこいつが一番いいと思ったんです」

「そうですね! この子は絶対間違いないです!」

「ですよね。フフン……!」

すると、俺と同じく、スピーカーを物色していた同年齢くらいのミュージシャン風のお客さんが興味深そうな目つきをして話しかけてきた。

「コレ、いっちゃうんですか……?」

「はあ、いってやろうかと。お兄さんコレ、どう思います?」

「イイんですねよえコレ……」

「お兄さんはどれを?」

「僕、DJやってるんでこいつを(低音が豊かに鳴るリッチなやつ)」

「イイですねえ……いっちゃいますか」

結果、彼も、俺も、それぞれの目当てのスピーカーを購入。妙な連帯感が生まれたのか、互いにグッと親指を立て合い、謎のポジティブコミュニケーションを交わす。初対面でよくわからないやりとりだが、なんだか気分がよかった。それは、彼のマスク越しの表情、ハッピーな目つきからも窺えた。

悩んで検討してちょっと頑張ってえいっと同時一括購入する。すると多幸感が滲む共感が生まれるのだなと、今まで知らなかった感情を得た。何かの縁なので名刺交換でもしておけばよかった。

帰宅し、ホクホクでさあ設置しよう、まずはRadioheadあたりを鳴らしてこいつのポテンシャルを全身で浴びよう、そうエモを噴気させながら各種の線を繋いでいたが一点だけ繋がらない。

店員のお姉さんに「線も定番以上のいいやつを」と、選んでもらった線は、片方が「オス」「メス」の端子が合わないやつだったのである。必要なのは「オス」×2本である。

プロでも間違えることがあるんだなと思い、同型の線のオスをネットでポチり。エクストリーム便で発注。そういったわけでニュースピーカのデビューは明日以降におあずけである。

俺が密に音をつめて制作するためにも、みなさまが一生懸命作った音楽を良質な環境で聴くためにも、文句なしのやつをいってやったのは懸命な判断のはずだ。機材屋で出会ったDJの彼の作品もこいつで聴きたいところである。線はまだか。
_06/16

 

 


洗濯をするという一点の用事のために足立区の病院へ行く。入院中の父はもはや乾いた仏のような物腰でベッドにただ横たわっていた。

言語コミュニケーションもままならぬという状態。俺の呼びかけと彼の表情だけで意思疎通するという難しいやりとり。しかし、看護師によると俺が来ると明らかに良さげな反応を示すという。

よく見ると俺が話しかけると黒目が若干生きる。ネコの機嫌を見る時と同じ要領のコミュニケーション。さすがに同情心も湧かんでもないが、それよりも俺はなんとなく「胃ろう」の状態が見てみたかった。

「看護師さん、胃ろうってどうなってるか見たいんですけど」

「はい。大丈夫ですよ。カーテン閉めますね…こういった感じです」

「うわグロ。グロいっすね。写真撮ってもいいですか?」

「それは……(笑)」

「ですよね。不謹慎ですよね。ごめんなさい」

父は体力が回復しきらず、脳手術はおこなわないという医師の判断がおりた。そして、退院、次の受け入れ先へという流れとあいなった。

ソーシャルワーカーさんと面談すると、結論的に茨城県にある施設くらいしか今のところ受け入れ先はないという。遠すぎる。

しかし、話を聞くところそこに決めるのが賢明という空気。そこでお願いしますという「ご家族の意思」という名の決断を示した。

たまに面会に行くのに茨城県。赤羽から茨城県というとちょっとした旅行である。月イチくらいで旅行に行けると、強引にポジティブに捉える。なにしろ受け入れ先施設が見つかってよかったではないか。

えもいえぬ気分で帰宅。昨夜発注して無事届いた線をつなぎ、ニュースピーカーをデビューさせ、Radioheadやらたくさん聴く。なんて良い音だ。この子は俺を癒してくれる。たくさんの音楽を良質な音で出力してくれて癒してくれる。ありがとうスピーカー。こいつの電源供給にベストな機材をくれた足立くんありがとう。良き音楽を創るみなさんありがとう。
_06/17

 

 


知人のメルマガに以前書いてあった「集中力の要る作業中はスマートフォンを手元に置かない」というのをやってみた。それはそれは捗るという。

実際、相当違った。一度二度と、スマートフォンに気をとられるだけで集中力のオンオフに労力的な部分をかなり削がれていたと気づく。

もちろん急ぎの用事もあるだろうし、リアルタイムで対応しないと連絡してくる相手に失礼にあたるかもしれない。だから数時間おきにきちんとチェックすることに加え、基本的には作業中にいきなりカットインされない時間を意図的に作るろうかと検討する。

でも、返信がけっこう遅い奴と思われるのも悪い気がするという葛藤。
_06/18

 

 


昨夜、498円のワインを呑んだらちょっと美味かった。「テンプラニーリョ」とかいうブドウの品種のやつなのだが、「この類のワインは廉価でも偉そうな味がしてだいたい美味い」と、高校生の頃にアルバイトしていた足立区の「東京リカーランド江北店」という酒屋で教えてもらったことを思い出し、即決で買ったのである。

今考えると、高校生のアルバイトに平気で酒を呑ましたり知識を与えたりと、いかに1990年代という時代が昔になったのだなと実感する。現代では考えられないヤクザな教育である。あの頃に頂いた酒知識は今でも頭と肝臓に染み付いている。

「カベルネソーヴィニヨンというブドウ品種のチリ産のワインはだいたい美味い」とか、「女を口説く時は甘めのロゼスパークリングワイン」だの、「日本酒を呑み過ぎると記憶が飛びやすい」、「ビールだけ呑み過ぎた時の二日酔いは地獄」等、根拠は謎だが確かにその通りっぽいということを植え付けられた。

そんなことを回顧しながらの昨夜はやや呑み過ぎたきらいがあるが、今朝は何故か上機嫌で早起き。健やかに仕事をして過ごす。

明日は11時茨城県到着という用事があるので、今日は早めに寝ようと思ったがすでに25時。今から酒を呑んで寝て8時前に起きてとなると、2日で10時間も寝ていないことになる。今日は休肝日にしようかと思うが、昨日の残りのテンプラニーリョのワインが呑みたい。このワインは何故か早起きできるから大丈夫と判断。乾杯。
_06/20

 

 


一言で表すなら「質素」。初めて行った茨城県はたいへんシンプルな地という印象。

俺が今日行った取手市は見渡す限りの畑。墓地。コンビニなど道中数えるほどしかない。実は赤羽がいかに都会なのかということを初めて実感する。

父親の受け入れ先の病院に到着。各病室を観察する。入院中の患者さん方の印象を一言で表すなら「末期」。まるで覇気のない者か、奇声をあげる認知症患者しかいない。

フォークトロニカでも聴こえてきそうな牧歌的景色がよく見える203号室窓際のベッドに父親を着床させる。彼にはもはや自分がどういった理由で今どこにいるのか判断できる脳細胞は残っていないだろう。だから俺は「引越し先に着いたぜ。空気が綺麗なよい所だ」とだけまず伝えた。

発声もままならなくなった彼は、「アゥ」と抜かし、悪くなさそうな表情を見せる。俺の声と、何を言っているのかはおおまかに理解できている模様。末期。

待合室で担当看護師の説明待ちにつき本棚を物色。『ナニワ金融道』『グリーンヒル』『ドラえもん』などの漫画があった。どういうチョイスでこうなったと声を漏らしつつ、古谷実先生の名作『グリーンヒル』1巻を読み、笑いながら待つ。

同年齢くらいの看護師の方の説明を受ける。もう今まで各施設で10回は署名したであろう「拘束同意書」など、色々な書類にサインをする。

「それでですね看護師さん、彼はここにくるまで何回も施設や病院を渡り歩き……」

「まあ、そうですか。ご苦労なさったんですね」

「はい。彼は性格に問題があるのであらゆる施設でバイオレンスな迷惑をかけては追い出され…」

「どのような性格なのでしょう?」

「二言で表すならサイコパスのDV野郎です」

「まあ、そうですか。ご苦労なさったんですね」

「そういったわけで、親子の関係値は最悪に近いんです。でも手前の感情も3周くらいして『早く死ね』という気持ちと『わずかの同情心』が同居しています」

「まあ………!」

「だから、面会やらには応じます。世間一般的なスパンとしてはどれくらいが普通でしょうか?」

「そうですね……そういった関係性上、いっさいご家族が来ない患者さんもおられるんですよ」

「気持ちは非常にわかります。『死に待ち』でしょう? 高齢化社会の淵ですわ」

「色々なご家族がおられますからね……」

「すみません不謹慎な言い方でした。でも、それがリアルだと思うんです」

看護師産は「そうですね」とも言わず、頷きもしなかったが、確かに目がYesと言っている気がした。

「賢治さんは東京にお住まいとのことですし、月に一度でも来て頂けると……」

「わかりました」

「……以上でご説明は終わりですが、ご質問はございますか?」

「せっかく茨城県まで来たので、地の美味いものでも食って帰ろうと思うんです。この辺でなにかあります?」

「ないですねえ……なんもないんです。この辺」

「じゃあ、茨城のいいところって何ですか?」

「ないですねえ……」

「何かあるでしょ?」

「何もないです(笑)」

「ぶはははは」

「おほほほほ」

「じゃあ駅前でなにか食べて帰りますよ」

「駅前、何もないですよ?」

「さすがに駅前は何かあるでしょうも」

「ないんですよこれが」

「看護師さん、茨城に何か恨みでもあるんですか?」

「それもないんですよ」

「ぶはははは」

「おほほほほ」

そういったわけで手続きやらを終え、俺は持参してきた昨年撮影の親子2ショット写真をベッドの脇に置き、「また来るから」と伝え、親父のえもいえぬ笑顔を見ながら203号室を後にした。彼に復活の兆しがあるのかどうかといった点については知らん。言及する気にすらならなかった。

病院タクシーみたいなハイエースで駅まで送ってもらい、駅付近を眺める。ガチでなにもない。もうここまでくると「ド田舎」というフレーズを使わざるを得ない。いや、畑で米などを生産し、日本の食生活を支える重要な地だ。

よく見たら駅の目の前に蕎麦屋があったのでもり蕎麦をすすって帰る。とりあえず茨城県はお冷が美味しかった。

次にここに来る時までに「茨城県のよいところ」を調べて、あの看護師さんにプレゼンしようと思う。いや、おせっかいだろうか。シンプルな地、それでいいじゃないかと思う。1日も閉じたことだし茨城県産の酒でも探しにスーパーに行こう。
_06/20

 

 


ここ数日続けて悪夢を見る。昨夜は、実兄が俺のMacを謎のOSに差し替えた挙句、奇妙なデザインのキーボードに交換してせせら笑われるというもの。

何を暗示しているのかは知らんが、何となく、直感的に、悪夢をみるということは別に悪いものではないと思っている。

確か、『ドグラ・マグラ』だったかに記してあった気がする。夢は各臓器の具合やらに反映する何らかとか、詳細は忘れたがそんなことが書いてあって、読んでいた当時、すっと納得した記憶がある。

夢野久作とか太宰治とか中島らもとか町田康、唯川恵や山本文緒や本谷有希子さんらなど、20代後半あたりは小説をけっこう読んだ時期だった。最近はとんと読まなくなった。いけ好かない感じのビジネス書などの方をよく手に取る。

文学より金か。30歳を過ぎたあたりから俺はそういう人間になってしまったのか。情念や感銘よりも実利やステイタスか。

音楽もそうだと思うが、楽しむジャンル的な部分に偏りが生じるのはある種の武器にもなるのだが、なるべく視野を広く持ちたいので幅広く受けたい。

こと音楽に関しては、聴く種類に偏りはさほどない。昔はロックばかり聴いていたがソウルもテクノもハマったし、ジャズやブルースも有名どころはおさえつつ、個人的に好きなコアなエレクトロやノイズ、アンビエント系も楽しむ。スカやレゲエも好きになったし、最近はJ-POPをよく聴く。アイドルソングだって聴く。

しかし、読書に関しては非常に偏っている。精神医学系のメンヘラ本が本棚にずらりと並び、購入して読む小説の類はどこかダークサイド系のものが大半である。

「本棚と音楽ライブラリーを見ればそいつのパーソナリティがだいたいわかる」という持論がある。

音楽ライブラリーに関しては、来客に見てもらいたいくらい開けた雰囲気である。しかし、本棚は、そっと布をかぶせて隠しておきたいという気持ちがややある。

でもそれは、手前のよそ行きのツラしか見せないで暗黒面をひた隠す行為な気がするのでしない。「こういう本を読んでいる奴と思われたくないから、このへんの本は押し入れにそっとしまっておこう」ということはしない。ある程度の自己開示はコミュニケーションを円滑にすると考えている所以である。

だから、手前の仕事場に来てくれる方。どうか本棚はじっくり見ないでほしいけど、実はむしろ一番ちゃんと直視してほしい部分かもしれないという人間特有のアンビバレンスな感情。
_06/21

 

 


昼過ぎまで寝くさる。さいきん極度に睡眠時間を削った日が連荘したツケがまわってきた当然の結果と捉える。

気分もあまり優れない。疲れがたまっていたのだろう。今日は1日ゴロゴロとして過ごしたいところだが、その日のやることリストをメモった各項目に横線を引いて「済」としないと気持ちがよろしくない。

そういったわけでやることやって夜、スッキリとする。それにしても今日あたりは梅雨空の鬱屈とした波動が俺を誘うのか、博打欲がざわざわとする。

パチンコ店でプレイするのは禁じた。フリー雀荘に一人で勝負しに行くのも禁忌とした。これらに反することは極刑に値すると自戒して健やかに過ごしている。

しかし悪魔的人格が俺を唆かす。「他にも博打の種目はあるぜ? 手前が勝ちまくれる種目をまだ知らないだけで損しているかもしれんぜ?」と。

知人がオンラインカジノというジャンルにハマっているという話を思い出した。その実に香ばしい種目にはまだ手を出していない。何となくの知識だが、法的に限りなくグレーであり、謎の銀行口座経由で現金を賭すことができるというもの。

博打で得をするのはいつの時代でも胴元だ。その場を仕切っている店、あるいは仕組みを把握して経営している者である。要は「半か丁か!」と、サラシを巻いた物腰でサイコロを振っている側の人間である。

超一部の人間はプラス収支で凌いぐこともあるが、死ぬまでその勝利が確定することはない。博打の世界は誠に地獄そのものだ。

一瞬でも「ちょっと試しに…」と考えた俺のギャンブル脳は死ぬまで治らない。一度染み付いた衝動は消せない。非日常的な快感を味わったことは脳細胞に刻印されている。各種依存症の者は、定期的に、あるいは毎日、その衝動を打ち負かす必要がある。

目に見えている。手前が興味本位で気軽に新たな博打種目に手を出した場合、簡単にリアルカイジ人格に戻ってしまうことを。アルコール依存症の「スリップ(禁酒中の再飲酒により一瞬で再びアル中になること)」と全く同じである。

だから、現金を賭けないオンライン麻雀ゲームを30分やって濁す。これもかなり際どい行為だが。

そもそも、人生そのものが何者にとってもギャンブルのようなものという捉え方もある。なんという品のない捉え方だ。だから、手前が生きる上で、誰かが生きる上で必要な行為に力を注ぐことが手前にとっての一番の満足のはずだ。

自分のした仕事で誰かが喜んで生活費なりが入ってくれば、なにより嬉しいではないか。仕事を頑張ろう。手前の中のリアルカイジはとにかくしつこい。
_06/22

 

 


リモート案件をひとつ。隙間時間にお散歩に行く。まあまあ歩くが「ニトリ」という家具屋さんに向かう。店内で自分好みのカッコいいテーブルを探すもちょっと見当たらずしょんぼりする。

帰路、ディスカウント系の大きな酒屋に寄る。積み上げられた缶ビールのケースのダンボールの香りが高校時代の酒屋バイト時間を思い出させる。

日本酒コーナーを眺める。手前は日本酒を呑み過ぎると記憶を飛ばしがちなのもあり、最近あまり呑んでいない。

ふと、「茨城県のよいところが思い浮かばない」という、茨城県の病院の看護師さんの困惑ぶりが頭をよぎり、「茨城の美味い酒を見つけよう」という妙案が出た。

さっそく品そろえ豊富な日本酒ラインナップの値札に書かれた生産地で絞る。こういったお店はちゃんと酒の生産地を値札に書くから好きだ。酒愛を感じる。

さすがに新潟県産が多い。東京都産はというと、何年か前に赤羽にあった酒蔵が閉じたこともあってか見当たらなかった。目当ての茨城県産・日本酒を探す。

100本は超える品数の中、茨城県産の日本酒は1本だけであった。なんかあの看護師さんの困惑もわかってきた気がする。

たった1本というレアな茨城県産の日本酒のラベルには「SABA de SHU(サバデシュ)」と、縦になった鯖のイラストと共にアルファベット表記で記されていた。

これは奇を衒い過ぎだ。茨城県の日本酒たるやターゲットを絞り過ぎではないかと、俺は驚きを禁じ得なかった。攻めすぎだ。

4合瓶の「SABA de SHU」には、「鯖専用日本酒」と書かれていた。なぜ鯖とのマリアージュに限定するのか。俺は茨城県と鯖の相関関係を知るべく、ググッた。「茨城県 鯖」の検索ワードでヒットしたサイト数は約 3,340,000 件。

「日本一のサバの漁獲高を誇る」「もの凄い鯖」「茨城県が自らの強みに気づいた結果、とんでもない”サバブーム”が誕生」など、そこまで詳しく調べていないが、かなり茨城県と鯖に関するサイトが目についた。どうやら茨城県は鯖を推しているもよう。

なら納得と思い、1,000円ちょいの「SABA de SHU」4合瓶を購入。つまみは、もちろん鯖だろう。鯖一択である。というかこの酒の名とラベルの押しの強さは鯖以外のアテを選択肢に入れてくれん。

俺はシメサバが大好きだ。完全に決まった。今日のつまみはシメサバだ。しかし、思い出した。去年の6月、確かここに記した。シメサバを食って大当たりしたのである。

父親の面会がてら、シメサバが当たってしんどいという旨を伝えた。すると、アルツハイマーにより脳細胞スカスカのはずなのに「この時期にそんなもん食うからだ」と、父親から一般論を叩きつけられたことを思い出した。

同じ失敗はしたくない。しかし、「SABA de SHU」のつまみはシメサバ以外考えられない。でも、今は梅雨真っ只中。再度大当たりを引く確率は極めて高い。

結論、茨城県産日本酒「SABA de SHU」×「シメサバ」のマリアージュを楽しむのは来月以降にしようと思う。あるいは来月茨城県の病院に行く際、「ドクターとみなさんで呑ってください」と、病院に差しあげようか。

件の看護師さんには、「茨城県のいいところ、なんでも鯖かもしれませんぜ」と、気づきを得るヒントが生まれるかもしれない。

鯖専用日本酒という発想はなかった。オルタナティブすぎる。茨城県はオルタナな地なのかもしれん。だとしたら、好きになれる地だという気がしてきた。いや、オルタナティブという言葉の使い方が少々逸れている気もする。もっとポップないいところはないのか。茨城県。
_06/23

 

 


うどん屋さんに行く道中、やさぐれた連中に声をかけられる。「あれ、平吉さんじゃないですか」と。

もう1年半は行っていない、かつて入り浸っていた雀荘のメンバー(店員)らである。10メートルは離れている距離から、よく俺と識別できるものである。当時どれだけ入り浸っているかを赤裸々に物語っている。

「ああみなさん。お久しぶりです」

「全然来ないじゃないですか! お願いしますよ!」

「いや店長、しばらくお休みしてるんですよ。ギャンブルは」

「なるほど。じゃあ、落ち着いたらまた!」

「その時はまた胸を貸してやってください。じゃあ」

ああいったアウトロー寄りの人間は、余計な検索をしないあたりとても好感を持てる。暗黙の了解で、人との心地よい距離感というのを常識人以上にわきまえている。

うどんをすすりながら思った。「博打が打ちてえ」と。帰宅し、仕事の続きと制作をする。アコースティックギターを録音する。こっちの方がたのしい。当たり前だ。そう思う。思い込む。

赤羽に居る限り、かつて近しかった博徒という闇の住人とのコンタクトは避けられない。でも、フレンドリーに声をかけてくれて嬉しくもある。卓上での勝負ではなく、彼らとふつうに、呑んだりして遊びたいものである。
_06/24

 

 


どうにも気だるく覇気も薄い1日の始まり。自粛やらリモートやらと、通常時に比べて時間が余ると捉えられるのだが、日々やったことをタスク帳的なノート見返すと、毎日なにかしらいくつもやっている。

これは偉い。と、シンプルに思うのだが違う。しっかり休む日を設けてないから今日あたりダルくなるのである。休むのをサボっているのである。偉くない。

やや前傾気味のくたびれた姿勢でJR線に乗り、渋谷へ。先方に赴きライブビューイング的な案件という、リモートなのかそうでないのか絶妙な案件をする。

要は大画面でライブを観たのだが、それで少し元気が出てきた。どうも最近下降気味だった食欲も湧いた。赤羽に戻りオクラ牛丼をわしわし食う。足りない。それくらい覇気がわりと蘇った。

そうか、元気が出る文化芸術的なものを浴びる機会がさいきん少なかったからダルかったのかと納得。俺がサボっていたのは「休むこと」というものあるが、「健康で文化的な最低限度の生活を営むこと」もちょっとサボっていたのである。偏っていたのである。

人間、仕事や制作を一生懸命してれば精力的で良き、というわけではないようである。

ちゃんと遊んで文化を浴びて、花を愛でて草に水をやり、家族との時間を設け、友人と戯れる時間を取り、性的なことに躍起になるということ、色々なことにバランスよくリソースを割く必要があるようである。人間生活というのは実に難しい。

こういう時、伴侶がいればバランスがよくなるということは経験上知っている。恋活でもしようか。いや、年齢的に婚活だろうか。いずれにせよ、もはやどこから手をつけてよいのかすら分からない四十路寸前。
_06/25

 

 


おれもまだタフガイだなと感じつつの良き目覚め。案件で外苑前へ。だんだんリモートではない案件が戻りつつある。

20歳の若い方と小一時間過ごす。若い方は話しててすぐ「ウケる!」と、感情に花開かせるものだからこちらまで元気になる。ウケる。大事な情念である。いや、反応だろうか。ウケるとは、ストレートかつ嘘のない、たいへん素敵なポジティブ反応である。

そそと宅に戻り、柑橘系フルーツ香る粋なうどんを食べ、煙草を吸い吐きし、原稿やら制作やらをする。

2日前、アコースティックギター7本重ねという地味に実験的な録音をした曲の土台を聴き返し完成に向かわせる。生音とは不思議なもので、機械的な打ち込みの多重録音では出ない魔法のような波動が生まれる。

打ち込みでその魔法を生成する強者もいる。生音録音、エレクトロサウンド、バンドサウンド、俺はだいたいなんでも好きだから色々作る。とにかく今年はよく作る。

ふとした時に、誰かがメディアで俺の曲を使用してくれて、それが耳に入ると歓喜、というかこういう時俺はまず、感動よりも嬉しみよりも感謝の気持ちよりも、「ウケる」という感情、反応だろうか、これが真っ先に湧く。当然感謝の意が最も大きいが。

どこかで聴いたベースラインだな。あれれ俺の曲じゃないか。ウケる。もう、これだけでも十分な悦びである。俺なんぞが作ったかわいい楽曲たち。どうかもっと色んなところでたくさん使って頂けると幸いに存じます。
_06/26

 

 


今日あたりはなんだかくたびれたので、無制限に己を解放してなにかがしたい、という気もすら起きなくなり夜飯後にソファにそっと沈む。

体が疲れているとかではなく、頭を使いすぎというほどでもない。これは何に疲れているのかと考えた。気疲れだろうか。

発達障害やHSPという特性を持つ人は繊細なぶん、気疲れしやすいらしい。俺もそうなのだろうか。「DSM-V」を買って冷静に診断してみようか。一度買おうとしたことがあるが2万円するから諦めた4年ほど前。ガチの書籍は本当に高い。

ギャンブルとか酒とか、ある種、感覚を鈍麻させる類のものに目がないのはそういうことなのだろうか。今日あたりはくたびれたので、酒もうまかろう。
_06/27

 

 


昼過ぎ、ラジオをつけてJ-WAVEからクリス・ペプラーさんの声が響くと「日曜だな」と思う。今日は宅での作業日である。なんなら完全にサボっても別に問題はない。

しかし、原稿をやったりDAWで制作をしたりと。今日あたりはとても美しい曲が完成してほっこりした。

しかし、なぜ俺は毎日仕事や作業と、せっせと真面目に過ごしているのだろう。どんな夢や目標に向かっているのだろう。

昨日、20歳のギャルに(仕事で)聞いた。「夢はなんですか?」と。俺がされて最も困ってしまう思う質問である。

「ええ〜別にないし!」

とのことだった。しかし、目標は各種しっかりとあり、それらに向かって“今”を重ね、その結果として達成した大きなものが夢なのではないかと話は進んだ。たいへん立派な考えを持っていた。

俺は完全に共感した。ギャルに。「夢」を持ったとしよう。されど、人生はその夢に向かうだろう。何でもいいが例えば「世界征服」が夢だとしよう。その夢を叶えるためにはあらゆる目標を達成する必要がある。

まずは都知事になって、議席をぎょうさん確保し、内閣総理大臣に成り上がり、各国の大統領と仲良くし、懐柔し、世界の王に君臨する。夢達成である。

俺が夢を持つことや、夢がどうのとか訊かれるのが鬱陶しいと思うのには理由があったりする。夢がない場合の未来も、何色もの輝きがあるという思いがあるからだ。

先述の例だと、例えば都知事選に立候補する過程で、有権者の気持ちを聞いているうちに「若者や高齢者の声を聞くと、どうもこの国の医療制度はもうちょいいけるはずだ」と感じたとしよう。そして、そこの分野に直で携わりたい欲が湧いたとしよう。

ここで「夢」が揺るがない場合は、とりあえず政治家の道に直進する。

「夢」でなかった場合は、医療制度をどげんかせんといかんと思う気持ちは医療機関への関心へ直結し、そのうち「日本のメンタルヘルスへの取り組みの遅れ方は世界的に見て遅れ過ぎでヤバい」ということに気づく。

すると、「直接メンタルヘルスの仕事をしよう」という選択肢が出る。夢があるとそうはいかない。

夢というやつは、一概には言えないが、時に人間の可能性を制限し、足枷となる気がしたりもする。本当は向いていること、その人にとってベストなことをシャットアウトする危険性すらあるのではないかと。

だから、俺は夢をもたない。強いてあげるなら「自由になりたい」とか言う類の尾崎豊的なやつである。

俺の20代の頃の夢「バンドマンになって大成功してやる」という夢を今も持ち続け、20代も30代もそのまま走り続けていたら、もしかしたら今頂けている仕事にはありつけなかったかもしれない。これは負け惜しみも少々含むが。

要は、夢を持つことはよいことでもあり、そうでない部分も人によってはあるのではないかという話である。

かたくなに持っている夢が、未来への適応、個人の適性、他者や社会がその人に求めるベストなことを阻害してしまうというリスクを孕んでいるという、たいへん個人的な考えであるが、20歳のギャルとそのスタンスがちょっと似ていたのは、どこか嬉しかった。今の積み重ねが大きな夢に向かうという、そのギャルの考え方には感銘を受けた。

マジョリティは「夢を持とう」で間違いなさそうである。俺はあんまそう思わない。人それぞれでいいと思う。

ただ、逆算思考的に「まず大きなゴール(夢)を設けてそこに向かうための手段を考えて実行していく」という、苫米地英人博士的なスタンスはたいへん有効だ。

夢を持っている人は応援したい。しかし「君も夢を持とうぜ! 目標はなに?」と言われると、嫌まではいかないのだが、「それは俺の人生だからほっといてくれると心地よいんだけどね」となる。

それでも、ある種のお偉いさん的な方というか、立場的に上的な方に「君の夢はなんだね? ん?」と聞かれたとして、「ほっとけよ」とは、なかなか言えるものではない。

「いや、ないんですよこれが」と答え、「なるほど。君なりの考えがあってそういうスタンスなのだね」と、懐の深い受け方をしてくれる方はわりと少数。

だから俺は、そう聞かれた時、まだ心を許していない相手からそう質問された時用に、「嘘の夢」でも一つ考えておこうと思った。

「君の夢はなんだね? ん?」

「はい。なんとか系の会社を作って年商100億です」

という感じの流れで「凄いな! 頑張れよ」と言われてそこで話は終わるか、あるいは、

「ふうん…嘘っぽいね。本当は?」

「さすがっすね。本当は夢なんかないんですよ。だってこうこうアレで…目の前の目標はたくさんありますけどね!」

「ふうん…何で嘘ついたの?」

「超ごめんなさい。第一、『なんとか系の会社を作って年商100億』というのは夢ではなくて目標ですよね。その会社と100億円で何をしてハッピーを生むかというのが夢というやつですよね」

という話の流れの感じだと、俺はその人と仲良しになりたいなと思う。「夢の話」ができるから、もっと話がしたいと思う。というか嘘はやめよう。ないならないとちゃんと言おう。変な話、夢がない理由は明確なのだから。

と、ここまで書いた瞬間「夢」を思いついた。肚から出た「夢」である。それは、「家族仲良く幸せに過ごしたい」である。そんなもの夢だ。

そこは逆算思考で頑張ってみようかとせめて検討くらいするべきである。
_06/28

 

 


睡眠時間控えめの日だったが至って元気。仕事や調べ物や制作と、真面目に過ごす。

6月もそろそろ終わる。来月俺はまた一つ歳を重ねる。そういえば、18年前、わりと近しい人間が俺の誕生日に自殺をした。

あの時の「なぜ、俺の誕生日に何某は自殺をしたのだろう」という疑問は、今でも根深く残っている。ただの偶然にしては1/365の確率は低すぎる。詳しくは来月あたり記そうかと思うが。

人はなぜ自殺をするのだろう。わざわざ自発的にしなくとも絶対に人は死ぬのに。とか思う人間は、自殺をする確率は低そうだ。低い方がいい。しかし、どこか、自殺という行為そのものを完全否定することができないのは何故だろう。

俺は、本当に自殺なんてしたくない。死んでも来世とかがあるのか、そういったことはハッキリわからないが、間違い無いのは、今この時代に生きている自分という存在の人生は確実に一度きりだからである。

プログラミングやダンスが学校の必修科目になるだかなっただか、そうらしいのだが、俺はメンタルヘルスの授業を必須科目にすると、これからの時代もっと明るくなる気がする。

パーソナリティー障害や発達障害など、「病気や障害というより、人としての特性、脳の特性という捉え方、“個性”」という概念を持つだけで、相手を尊重する意識ができる気がする。差別や意味のわからないマウンティング行為はいくぶん減るんじゃないかなと思う。

「あなた、なんでこんな当たり前のこともできないの?」という発想は死滅すると思う。「これができないかわり、この人は自分にはできないことができる素敵な特性を持っている人なんだ」という考えが自然に湧く気がする。

都知事選の選挙ポスターを眺めていて、そういうことに特化した公約を掲げる候補者はいないものかと探した。しかし、いなかった。じゃあ誰に投票しようか。こればかりはサイコロを振って決めるわけにはいかないそうな。
_06/29

 

 


6月にしてはそれっぽい天気が少ないと思いきや今日は完全に梅雨の気候。

宅でしめやかに仕事や制作をして過ごす。湿度が高いと気が滅入る。これからどうなっていくのだろうとふつふつ考えながら淡々と時間が過ぎる。

2、3日、計画的にからっぽにしてリフレッシュと考える時間が必要だなと思う。これの実行がなかなか難しいが、ちょっとやってみようと思う。

ビル・ゲイツさんだったか、年に何回か仕事を完全に離れて2週間読書やら考える時間を意図的に設けていたと本に書いてあった。

一旦思考を広げる時間は大切だそうだ。2週間はなかなか思い切りがいるので、せめて3日、ぽっかり空けてみよう。とても生産的で素敵なアイディアが生まれるかもしれない。
_06/30

 

 


 

 

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